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ARTICLE · INTERVIEW · 2025.10

INTERVIEW

mycetozoa|黒石友希|終わらない自己探求と創作―独自の世界観を表現する装飾作家―

ホテルエメラルドアイル石垣島2階のギャラリーで、個展「移入種」を開催中のmycetozoa(ミセトゾア)さんを取材した。(展覧会は2025年8月31日に終了) 会場に足を一歩踏み入れると、日本最大の蝶であるオオゴマダラをモチーフとした大きなアクセサリーが繊細な輝きを放つ。「博物画」などの紙を独自の技法で立体的に加工した、様々な装飾品を制作している。八重山では初となる個展の様子と、作家としてのルーツや想いを伺った。


mycetozoa 個展「移入種」

―今回、八重山では初めての個展ということで、八重山らしいオオゴマダラのモチーフのアクセサリーが印象的ですね。

これまで京都にアトリエをかまえて、京都のギャラリーや百貨店で展示や販売をしてきました。2020年頃から西表島に通うようになり、現在は主に西表島で制作をしています。オオゴマダラのアクセサリーは、死んだオオゴマダラを印刷して、その紙を立体的に加工したものなんです。

オオゴマダラが群れているような大きなブーケ

―本物のオオゴマダラを印刷したとは、驚きです。

通常は、博物画という、写真がなかった時代に図鑑の挿絵に使われていた絵を印刷して、立体的にアレンジして作品を作ります。元々博物画のコレクターなんです。

―面白いですね。博物画に興味を持ったきっかけと、作家活動につながった経緯について教えてください。

私には子供が3人いるのですが、子育てや家事をずっと一人でやってきて、自分の時間がとにかく取れなくて。5分でいいから、何も荷物を持たずに、誰とも手を繋がずに1人で歩きたいって心の底から思っていました。そういう中で唯一できる息抜きが、海外のインテリア雑誌を眺めることだったんです。そんな中、オークションサイトで1冊のノートに出会いました。それは、1700年代から1800年代にわたって、7人の人に渡ったフランスのノートでした。

ページをめくると、筆跡が全部違うんです。お金の計算をひたすらしているページもあれば、祈りの言葉がいっぱい書いてあるページもありました。そのノートを見ていると、子育てとか、家のことからちょっと意識が離れる。どんな人が書いたのかわからないけど、書いた人の性格や人となりが見えてくるのが面白かった。

―想像を掻き立てられますね。

そうなんです。それくらい多分飢えてたんですよ。そのノートをきっかけに、同じ出品者から時々紙ものを購入していたら、あるときおまけで動物の博物画が1枚入っていたんです。すごく面白いと思って、ハマっちゃったっていうのが始まりでした。紙だと保管場所に困らないということもあって、コレクションしていきました。

1700年代の博物画。右はバナナ

―すごい、どこにきっかけがあるかわからないですね。

そんなときに転機がくるんですけど、娘が小学校3年生ぐらいの時に、いろんな職業を知ろうという学習の一環で、地域で職業体験をしたり、親にインタビューをする宿題があって。「ママの夢はなんですか。夢をかなえるにはどうしたらいいですか」って聞かれたんです。私、黙っちゃって。

心の中には表現したいという気持ちはあったけど、20代前半の頃って周りにすごい人達がいっぱいいて、自分の実力では無理だと思ってしまった。私は表現者として何かをやっていく人間ではなくて、お母さんとか、人を支える側が向いてるんじゃないかと思っていました。でも、娘から「夢を叶えるにはどうしたらいいか」と聞かれたときに、自分は夢を掴むために動いたわけでもなく、夢っていうものから極力目を背けてきたっていうことを自分で分かっていたから、何も言えなかったんです。

子どもたちが大きくなったら社会復帰はしないといけないなと思ってたので、その準備として何か資格を取ろうかとも考えたんですけど、どの資格にも興味が湧きませんでした。元々はヨーロッパのインポートカジュアルを扱うお店に勤めていて、パンツの裾上げなどをやっていたので、縫ったり作ったりはできました。それで、自分が何を作りたくて、どういうことがしたいのかを1年かけて考えてみようと思ったんです。自分が本当に好きなものを集めて、自分は何に興味を持っていて、どういうものを表現しようとしてるんだろうっていうのを、徹底的に調べたんです。

―なるほど。具体的にはどうやって調べたんですか?

インテリア雑誌がとにかく好きだったので、気に入った部屋の装飾の写真を切り抜いたりしました。アンティークのレースもすごく好き。もちろん自然も好きです。そういうものをたくさん集めて、自分の好きなものを追求しながら作品を作っていったんです。京都に恵文社さんという本屋さんがあるんですが、その奥にギャラリーがあって。すごく素敵な雰囲気のギャラリーで、会場使用は1年待ちだったんですよ。1年後だと、末っ子の入園式も終わったタイミングでちょうどよかったこともあって、ギャラリーを押さえて、それから1年かけて制作しました。その時の作品や展示は、もう今とほとんど変わらないものでした。

京都・恵文社ギャラリーでの初めての個展

―その時すでに今の世界観ができていたんですね。

その時はアンティークのレースを使ったものや、水晶を使った装飾品なども出していました。個展の直後に東京でデザインフェスタがあって、それにも申し込んでいました。京都では紙の作品が全く売れなくて、残った紙の作品だけを東京に持って行ったんです。そしたら東京のギャラリーの方が個展をしないかと声を掛けてくれて、そこから私は東京で作家としてのスタートを切りました。個展をするにあたって、紙という素材を使った作品を壊れにくく改良して、デザインもブラッシュアップしました。博物画を立体にするというアイディアはその時すでにありました。

―東京での反響が今につながっているんですね。

私はよく、子育ての鬱分から生み出した作品ですって言ってて(笑)。空間にこだわるのは、ディスプレイが好きっていうのもあるんですけど、子育ての合間に、1時間でもいいから誰か別世界に連れてってー!って、それだけで笑って子育てやれるから、って思ってたんです。だから現実から離れられる空間を作りたかったし、その1ピースを持って帰れればっていう意味で、アクセサリーに落とし込んで。

唯一無二の世界観をひとかけら、持ち帰るためのアクセサリー

―小さいものだったら持って帰れて、眺めるたびに癒されますよね。

5、6年ほどの間、デパートの催事に出店して、製品としてのクオリティはすごく上がりました。年配のお客様だと握力が弱かったりするので、そういう方でも使いやすいように改良したり、製品の強度をあげたりと、技術的にすごく向上しました。

ただ最近は、商品として制作することや、場の窮屈さみたいなものがあって。この価格だとこの手数、みたいな感覚が強くなってしまって、いざ大きい作品を作ろうと思ったら作れなくなってしまっていたんです。商品として求められるものを作るために、自分の好きだったものを削ぎ落さないといけなかった。私はもうそこが限界だったんだと思います。でもやり切ったし、技術向上できたし、いろいろ勉強になりました。

―商品として求められることと、自由な創作との間にずれが生じたんですね。

私の作品は、舞台に立つ方に着けていただくことも多かったんですが、コロナ禍になって舞台ができなくなったし、世の中全体がアクセサリーどころじゃない状況でした。コロナ禍は4~5年続くだろうなと思って、作家活動はきっぱりやめようかと思ってたんです。そしたら、付き合いのあるお店の方が、今ある在庫を全部送ってくださいって、こんな時だからこそ個展やりませんかって言ってくれたんです。個展には行けないけどって、お手紙くれたりメッセージくれた方もいて、すごく嬉しかったんですよ。それでやっぱり頑張ろうかなって思えて。

―西表島に初めて訪れたのも、コロナ禍が始まった頃でしたよね。

コロナ前は、フランスに博物画の買い付けに行ったりもしていたんですけど、コロナでしばらく行けないし、インプットをどこでするかということを考えていました。拠点にしていた京都は、人間が作った美しいお庭だったり、人が手をかけた自然だったり、素晴らしいものがたくさんありますが、そういうものはもうたくさん見てきたし、それとは真逆の手付かずの自然を見に行こうと思って、個展の最中に、西表島に行く飛行機を予約しました。自然からインプットするという方法に切り替えたんですね。

西表島の海

西表島の自然に触れて、大きいものとかおもしろいものの作り方を忘れちゃったっていう事に気づいたんです。今までそれを、島で取り戻す作業をしてきた。だからこそ、今回の展示にはすごく思い入れが強いんです。オオゴマダラのような、大きな作品が作れるようになった。京都にいる自分と、島にいる自分は違うんです。

オオゴマダラをモチーフにした作品。羽を縁取るように散りばめられたガラス粒が輝く

―生まれも京都なんですか?

もともと育ったのは岡山県で、ジーンズで有名な児島という町です。小さい時から誰かの家にミシンがあって、いつも誰かが制服の襟を作っていたり、アイロンをかけていたりという環境で、繊維祭というB品が売られるお祭りもありました。みんなミシン踏めて当たり前、みたいな環境で育ちました。

―なるほど、手仕事のルーツは幼少期の環境にもあったんですね。

でも、自分の周りにはアンティークが好きな人がいたわけでも、こういう雰囲気のものがあったわけでもないので、この世界観はどこから出てきたんだろう、と不思議に思いますよ(笑)。

―子育てしながらの制作で、大変だったこともありましたか

子どもたちに、母親としてどんな姿を見せていこうかということはすごく考えました。表現する自分か、家事や子育てに専念する自分か。でも私が何も作らないってことは、たぶん笑わないし、感情を表に出すこともないし、自分の人生を完全に諦めるっていうことになる。大人になった子どもたちがそれを見て、私が何を犠牲にしたのかに気づいて後悔するかもしれない。自分はそういう母親の姿を見せるのか。それとも、家にいなくて自分の好きなことしかしてないけど一生懸命やってる母親の姿、どっちの背中を見せようってすっごい考えたんですよ。

人生まだ何十年もあるかもしれないけど、何かを作ったり表現する時間は、もう本当に限られているなと。子育てはようやくひと段落してきたから、これからは自分の人生を生きたい。ここからまた自分でできることをやっていきたいし、さらに次の世代のためにやってあげられることをやっていくタイミングが来てるのかなと思います。

専門の技師によって彩色された博物画を使用することもある。右は漂着ゴミを使った作品

―これからやりたいことで、なにか具体的に思い描いていることがあったら教えてください。

おばあちゃんになったら、自分の技法を、お教室みたいな感じで全公開したいです。今公開しちゃうと、私が苦しくなっちゃうからまだ先なんですけど(笑)。けど、その前に自分の表現したいことがまだまだ残っている気がしています。それが何かは、今はまだわからない。どこに行こうとしてるのか、毎回わからないんです。でも後々考えると、あぁこっちに行きたかったんだなっていうのが分かってきます。

このブランドを始めて今14年目なんですけど、1周回ったという感覚があるんです。2012年に初めて恵文社さんのギャラリーでやった個展のときと、今同じ感覚なんです。あの時の個展には私がその後やろうとしてたことが、要所要所に散らばっていました。

今回の展示も、これがスタートという気持ちがすごく強いです。今回、漂着ゴミを使った作品も制作したのですが、それも自分らしいやり方でゴミ問題があるということを伝える表現です。それ以外にも、八重山の動植物などをモチーフに、私ができる表現の仕方で八重山を知ってもらうということをしたいです。今までは京都が拠点でしたが、これからはたぶん八重山っていうものがキーワードになってくるかな。

“移入種” 他の土地で生まれ、新しい環境に定着した存在 ―作家自身の静かな表明だ

―今回の展覧会のタイトル「移入種」にはどんな意味が込められているんですか?

最初、個展のタイトルを「外来種」とか「よそから入ってきたもの」というようなものにしたいと思ってたんですが、「移入種」という言葉を知ってこの言葉を選びました。オオゴマダラの作品を展示することは先に決めていたのですが、実はオオゴマダラも移入種なんですよ。他の土地、私だったら、京都で活動をしていたものが八重山に移入してくる。今回の展示が、八重山での自分のスタートですっていう決意の表れでもあるんです。

―最後に読者に向けて一言お願いします。

私にできることをまだ模索中なのですが、なんかこの人どこに行くのかなーっていうところも含めて、楽しみにしてもらえると嬉しいです。